卵子提供体験談'04〜'00体験談

関東甲信越地方のS様のメッセージ「壮絶な不妊治療の末にやって来た天使」

夢にまで見た赤ちゃんが誕生して5ヶ月が経ちました。
今、私の横で可愛い寝息を立てている我が子は、まるで小さな羽をつけた天使のようで、私達に幸せを運んできてくれました。早く逢いたくてどれほど待っていたことでしょう。

私が、このままでは妊娠の可能性は殆どないかもしれない、とそれまでの治療に見切りをつけたのは42歳の時でした。
長年続けてきた不妊治療は、現在国内で行われている治療法の全てをやり尽くしたものでした。高齢の為、卵巣の機能がかなり衰えていましたので、遂には最大量の排卵誘発剤にも反応をしなくなってしまったのです。

生理も薬でおこす様な状態になり、更年期障害の症状も出てきていました。医師からも、可能性が全くない訳ではないが、子供は諦めて二人での人生を考えた方が良いのでは、と辛い宣告を受けたのです。奈落のそこに突き落とされた様な思いでした。
こんなに頑張ってきたのに結局は壮絶な治療の辛い思い出が残っただけで、赤ちゃんを抱く夢は諦めなければならなくなってしまったのです。

逃れようのない絶望に泣き明かす夜が続いたものでした。身も心も疲れきり、空しく時間だけが過ぎていた時、提供卵子によって妊娠が可能になるという究極の方法がある事を知りました。

インターネットでIFCの情報を得て、即、東京の事務所に申し込みをしたのです。
間もなくサンフランシスコの川田さんから連絡を頂きました。よく考えた上で決断してください、との事でしたが、既に決心はついていました。

他人の卵子を使って妊娠する、つまり生まれてきた子供は自分の遺伝子は引き継がないという事、しかし、全く迷いも抵抗もありませんでした。それどころか、地獄の底でもがき苦しむ私に下ろされた一本の救命ロープのように思えたのです。これで赤ちゃんを産む事が出来るかもしれない、と高まる期待の中でまずは検査渡米をしました。

早くも滞在中にドナーが決まり、夢が現実となる日が近づいたのです。帰国していよいよ"卵子提供プログラム"に向けて準備が進み、赤ちゃんを受け入れる為にホルモン剤を投与しながらその日を待ちました。そしていよいよ再渡米です。

一回目の移植を受けました。どうかこの先10ヶ月の間、私のお腹の中にいて下さい、と元気な受精卵達に願いをかけました。帰国して、赤ちゃんとの楽しい生活を想像しながら判定の日を待ちました。そしてその日がきたのです。

ところが、無情にも判定キットは良く見慣れた"マイナス"をしるしていました。
期待が大きかっただけに落胆は相当なものでした。しかし、いつまでも落ち込んではいられません。次に進まなければ、また年齢だけがどんどん過ぎてしまう。私には心を癒す時間など必要ではありませんでした。
この時の採卵で、まだ2回分の移植が出来る凍結卵がありましたので次に希望をつなげることにしました。まだ2回のチャンスがある、今度こそ成功する、と期待を持ちました。
ところが、その2回の移植も失敗に終わってしまったのです。

凍結卵は全て使い果たしてしまい、もう絶望的した。
どうしてこの様な結果になってしまったのか。これで全てが終わったと思いました。
しかし、ほんとにここで諦めてしまってよいものか?もし諦めたら今までの苦労と努力は何だったのか?むしろ、一層思いが募ってしまい、もう後には引けなくなってしまいました。
クリニックのハーバート先生からも、妊娠できる可能性は充分あるのだからもう一度挑戦してみる価値はある、とのアドバイスを受けて、ドナーを変えて改めて"卵子提供プログラム"に臨む事にしたのです。

ホルモン剤の投与も薬から注射に変えました。
始めは自分で打つ注射にためらいがありましたが、妊娠が叶えられるのであれば怖さも半減したものです。もう一度頑張ってみよう。もしこれでだめならその時は潔く諦めよう。
勿論、精神的、肉体的、そして費用の負担は大きなものでしたので、この時の決断は"賭け"のようなものでした。そして4回目の移植に臨むことになりました。

ところが、なんとまたしても失敗してしまったのです。
ドナーを変えて、注射に切り替えて、これほど頑張っているのになぜ妊娠しないのか?もう不思議とさえ思えるようになってしまいました。
しかし、落胆するものの、この頃には現実の厳しさを冷静に受け止めるようになっていました。今にして思えば失敗する事に慣れてしまっていたのかもしれません。

この時の採卵でも前回と同様に2回分の凍結卵がありました。残された凍結卵に希望をかけながらも、この頃はもうだめなのかと思う気持ちと、絶対に成功するのだと思う相反する気持ちが絶えず背中合わせだった様に思えます。
そして5回目の移植に向けて渡米、以前の様に切迫した気持ちはありませんでした。私はこの時すでに44歳になっていました。

検査渡米から数えて6回目のサンフランシスコはすっかり来慣れた町になっていました。
リラックスした気分で移植を受け、帰国して待つこと2週間、判定の日を迎えました。
いつもの様におそるおそる覗き込む判定キットの小さい窓、そこにはなんと陽性の反応があったのです。
初めて見る"プラス"の表示でした。夢なら覚めないで、そんな思いですぐに病院に向かいました。そして、血液検査で妊娠が確定したのです。

その後お腹と共に大きくなる夢を膨らませながら10ヶ月の妊娠生活を終え、無事男の子を出産しました。不妊治療を始めて8年目のことでした。

現在は親子3人で楽しい日々を送っています。
あこがれていた"川"の字で寝たり、休日にはベビーカーを押して遊園地に行ったりと、どこにでもあるごくありふれた家族の風景ですが、私達にとってはやっとのことで手に入れた幸せです。
辛い不妊治療、しかしそれはどれほど長く苦しい道のりであったかは壮絶な不妊治療を続けてきた全ての人の共通の思いです。途中、幾度もくじけそうになって、自暴自棄に陥った事もありましたが、最後はきっとこの手で赤ちゃんを抱く事が出来ると信じて諦めなかった事でこのような幸せを手に入れることが出来ました。

" 卵子提供"という選択に思い切って進んだ事は大きな決断でした。しかし、本当に正しい選択をしたと思います。どうしても踏み切れずに迷っていたら、未だに治療を続けていたか、または諦めてしまっていたことでしょう。随分と遠回りをしていたようですが、赤ちゃんは私たちの所にやっと来てくれたのです。

母になりたいと願う全ての女性は皆その権利があるのです。
何年か前までは私の様な状態になってしまえば子供を産むことなど到底考えもつかなかったでしょう。しかし、医学の進歩によりそれが可能となったのです。その恩恵を受け、壮絶な不妊治療をしてきた人が一人でも多く可愛い赤ちゃんを抱く日が来る事を願いたいと思います。

クリニックの先生方、川田さんをはじめIFCのスタッフの皆さんには本当にお世話になりました。可愛い天使を有難うございます。