卵子提供体験談2005.02体験談

東北・北海道地方のA様からの卵子提供プログラム体験談

この度のお正月、生まれて初めて年賀状に子供の名前を書き添え、家族三人の連名で出すことができた者です。
毎年お正月になると、「家族が増えました」と、赤ちゃんの写真入りの年賀状がたくさん届き、その度に落ち込んだり、恥ずかしいことですが恨めしくさえ思ったり、という年月を過ごしてきました。自分が悔しかったことを思い出し、年賀状に子供の写真を入れることを思いとどまったものの、今はこんなにかわいい我が子の写真を入れればよかったな、などと思ったりもしています。

私達は結婚は早かったのですが、共働きでもありましたから、最初は子供はもう少し後、と考えていました。まさかあんなに長い間不妊治療を続けることになるなどとは予想もしていませんでした。
日本で12回繰り返した体外受精にはかなりの費用がかかりましたから、私も仕事を辞めるわけにもいかず、周りの目を気にしながらの通院でした。忙しい職場で、自分ひとりだけ先に席を立つのも申し訳なく、でもやはり本当の理由は言えませんから、同僚には冷たい目で見られていたと思います。そんな治療は精神的にも大変辛いものでした。
だんだん採卵できる卵子の数も少なくなり、最後は授精しても胚移植に至らないような状態でした。その日本の先生から「卵子が老化している」と診断を受けたのですが、それでも、卵子が取れる限りはいつか妊娠すると思っていました。

40代になり、さすがにもうだめかもしれない、と思い、インターネットで不妊治療の検索をして、見つけたのが卵子提供プログラムでした。余りに高い成功率が書いてあったので、逆に信じられませんでした。
それに、12回の体外受精で多額の費用もすでにつかっていましたから、卵子提供プログラムの費用を考えると、最初は気が遠くなりそうでした。でも、これで子供が授かるなら、自分で産めるなら、と考え、主人とよく相談してIFCさんに申し込みました。

海外旅行は新婚旅行以来、おまけに恥ずかしいことに英語は夫婦とも全くだめです。
でも初めてのサンフランシスコで迎えてくださったIFCのスタッフの皆さんの暖かさに随分と救われました。
一回目の渡米で希望のドナーさんが見つかり、そのとき、もしかしたら本当にうまくいくかも、と希望をもって帰国しました。胚移植のための渡米は、主人がどうしても休みがとれなかったので、私一人の渡米となりました。
一人きりの海外旅行はそれこそ生まれて初めてだったので、とても緊張しましたが、サンフランシスコに滞在中は、日本町のホテルをとっていただき、英語のできない私でも、何とか無事に過ごすことができました。
ドナーさんからは、自分のときとは比べ物にならない数の卵子がとれ、凍結しておいていただいた主人の精子で体外受精し、11個の受精卵について説明を受けた胚移植の朝は、本当に信じられない気持ちでいっぱいでした。とても状態の良い受精卵だったので、2個の移植をしていただき、帰国しました。残りの9個は凍結保存していただきました。

妊娠判定の前夜は、「これでもだめだったら私はきっともう一生子供はもてない」と考え、眠ることができませんでした。まだ外が暗いうちからトイレに立ち、妊娠判定キットで確認したら、陽性判定が出ました。主人にすぐ伝えようとしたのに、涙が溢れてすぐに声にはなりませんでした。

卵子の提供を受けたら成功率は高いと聞いていたものの、この私が本当に一回で妊娠できるなんて、夢のようでした。初めての妊娠で、妊娠中はとにかくおっかなびっくりの生活でしたが、なんとか無事に出産できました。

まだこの子がこんなに小さいというのに、今では凍結保存していただいている受精卵をつかって、二人目に挑戦したい、などと気持ちが大きくなっています。

この幸せは、卵子提供というものがなかったら、あり得なかったものです。私に自信をもたせてくださったクリニックのハーバート先生、大変お世話になったIFCのスタッフの皆さんに心から感謝いたします。二人目挑戦の折には、また宜しくお願いいたします!本当に有難うございました。